なぜ経済成長が必要なのか。

経済的な豊かさのみが幸福をもたらすわけではないということは、だれしも感じているところだろう。しかし、熱病のように経済成長の必要性を説くのはなぜだろうか。

一説によると銀行などの利子の存在が経済成長を必要としていて、いわば資本主義という車を回し続けなければクラッシュしてしまうということらしい。

仮に日本に1000兆円の預金があったとする。0.1%の利子がつくとすると1年後には1oo1兆円存在していなければならない。確かに利子の存在は際限のない現金の膨張を予感させる。しかし、利子返済のための借金をすれば必ずしも実体経済を経由させる必要はない。つまり、経済成長なしでも金利による通貨の膨張は起こってくるということだ。

個人でも多重債務で破産する人がいるように、金融機関が貸してくれさえすれば借り換えによって利子を返済すれば経済成長は必要ないことになる。政府は毎年、借り入れによる国債の利払いを行っている。

また、元本を返済してしまったらこの話は成り立たなくなる。バブルが崩壊すると金融収縮が起きる。金融収縮というのは借金返済だ。信用創造で膨らんだ部分がしぼんでしまうので、1000兆円あったものが900兆円になることもありうる。実際にバブルが崩壊すると、むしろ中央銀行の思い切った緩和で通貨の量は増えることのほうが多いが。

利子によってお金が一方通行で増え続けるというわけでもないし、利子返済のために必ずしも経済成長が必要というわけでもない。

では、なぜ経済成長が必要なのだろうか。

例えば1個100円のものが10個売れたとする。次の年に11個売れれば売り上げは100円伸びて経済成長したことになる。もう一つのパターンとして個数は10個で変わりはないのだが、値段が110円になって売り上げが伸びることがある。

実際には同じものが10個しか売れてないので、正味の豊かさは変わらないのに、物価が上がったせいで経済成長しているように見える。

実はこの物価上昇型の経済成長が日本を含めた先進国には必要なのだ。

毎年売れる数が増えていく経済成長は貧しい国には必要だが、日本などの先進国にはさほど必要ない。もちろん、技術の進歩などによる新しい産業などは歓迎するべきだが、それだけで成長を持続するのは不可能だ。技術を開発するスピードよりも普及するスピードのほうが早い。

物価の上昇は所得の水準に比例する。1960年代の大卒の初任給が16115円(◆参考資料:物価の文化史事典(展望社)で、散髪代が200〜300円なので今の1/10くらいだろうか。散髪代が安いがその分給料も安い。

このことから所得の水準が物価を決めると考えられる。リフレ派は金融緩和だけで物価が上昇するという意見だが、個々の財布の中まで貨幣がはいってこそ物価は上昇すると考える。つまり、物価が上昇するということは経済成長をもたらし、所得が増えていることを意味する。

まず、所得が決まって次にそれに応じる形で物価が決まるのだ。

しかし、物価によって企業収益が決まり、従業員の給料が決まるという見方もできる。物価がなんらかの理由で先に決まっていて、給料はその影響を受けるという考え方だ。

サラリーマンの所得は企業収益に左右されるが、年金生活者や公務員給料などは政府の加減によって決めることができる。また、税制によって所得を左右することも可能だ。政府の支出や税制によって国民の所得は決めることができる。

最初のなぜ経済成長が必要かという答えは、政府による分配が十分に行われていれば物価上昇をもたらす。物価上昇が起きれば経済が成長するというものだ。経済成長自体が目的ではなく、国民がお金の心配をせずに豊かな暮らしができていれば物価上昇に表れてくる。

中国経済に求められるもの

人民元が下落して中国政府の通貨防衛が続いている。世界の工場と言われて安い人件費で生産できるので、通貨の下落というのは輸出にとっては追い風のはずだ。かつてはアメリカからの再三の通貨切り上げ要求があったりしたのだが、状況は真逆になってしまった。

通貨が下がるということは輸出には有利だが輸入には不利になる。中国政府は輸入物価上昇を抑えるために通貨防衛をしている。鉄鋼といった輸出向けの産業には過剰とも言える投資を行ってきたが、内需関連の投資を疎かにしてきたと想像される。

特に環境に対する配慮なさに象徴されるように、人民の生活向上といった視点が欠けていた。共産党の戦略だと世界の資源を買い占めて、原材料を安く調達しつつ、輸出向け製品を生産することで外貨が獲得できる。外貨が獲得できれば必要なものは輸入すれば済む話で、必要なものはそのつどコンビニにでも行く感覚で海外から買えばいい。そんなふうに思っていたのだろう。

人民軽視の経済政策の結果、内需が弱い経済体質になってしまった。一応、不動産関連の投資も行っていたようだが、作って終わりという限りなく消費に近い投資だったと評価せざるを得ない。意味のある投資というのは、生活や生産性の向上に繋がるものを指す。宅地開発を進めてそこで生活する人がいれば第二、第三のビジネスも始まるが、現実には新築のゴーストタウンができただけだった。

その場限りの内需振興もさることながら、輸出産業にしてもハリボテ感は否めない。冒頭に世界の工場という言い方をした。つまり、生産拠点であって、生産物の設計図はアメリカや日本が持っていて、独自にものを作る力は先進国にはおよばない。人民元高になって中国の人件費の割安感がなくなれば、アメリカや日本企業はベトナムやミャンマーに生産拠点を移すことを考えるだろう。

頼みの綱である貿易収支は2015年は対前年で-7.0%らしいので、外資の中国離れが予想される。外国企業が中国に投資をしないということは、それだけ雇用も失われるし外貨獲得のチャンスも作り出せなくなる。つまり、中国という国家ごとの失業という様相を呈してくることになる。

中身のない内需振興と、設計図を持たない外国企業のための生産拠点という2点に共通するのは、何も考えていないとうことだ。その結果、人民元の水準は輸入するには安すぎるし、輸出するには高すぎるということになった。

中国に必要なのはまず環境悪化の防止だろう。国内の富裕層は海外に逃げつつあるので、それを食い止める必要がある。その上で国内のインフラや教育投資をして地道に国内の産業振興に勤める他はないと考える。とはいってもやはり一番の問題は政治的だが。


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効率的な経済

2020年の東京オリンピックに向けて政府のタクシーの自動運転化の目標を始め、様々な産業のロボット化が進んでいる。介護の現場での入浴を補助するロボットや、着込むタイプのパワードスーツといったものまで開発されているらしい。

しかし、一方でそうした自動化による失業といった心配の声もあるのも事実だ。スーパーのレジなどでもセルフ化が進んでおり、その心配は現実のものとなりつつある。安倍政権が掲げる1億総活躍社会とは逆の方向に進んでいる感もある。

経営者としては人件費といったコストを削減して利益を求めるのは真っ当なことだが、国全体としてみたときに何がおこるのだろうか。

日本の人口は1億2千万人で約その半分が労働人口だ。つまり6千万人が働いていることになる。もし、ロボットやITによって今と同じ生産物が1千万人程度で可能になるとしたら5千万人は職を失うことになる。少し極端な例だが現実にならないとは限らない。スーパーコンピューターの進歩でシンギュラリティがくるのが2045年というから、そう遠い話でもない。シンギュラリティというのは特異点といわれるもので、コンピューターの強力な計算力によって、様々な科学技術的な問題が一挙に解決するというものだ。その頃には衣食住といった基本的な生活物資は、労働なしで手に入れられるという。

本当にそんなことになるかはわからないが、今以上に生産活動に人の手がかからなくなるのは間違いないだろう。ロボットを所有する金持ち(企業)と、何ももたない失業者が大量に発生するのは想像に難くない。ポイントは1千万人しか働いていないのに、今と同じだけの生産が可能になっているという所だ。

過剰に生産された財やサービスが余り、一方では所得がない人が貧困に陥いる。9割の人は生産に携わることもなければ消費することもなく、経済活動からはじき出される格好になる。

しかし、冷静に考えると全員分の財やサービスは生産可能であるのに、9割が貧困に陥っているというのもおかしな状況だ。働いていない人が貧しいというのはもっともらしいがそもそも雇用がないのだ。こうなると自給自足でもするほかはない。家庭菜園で延命をはかるくらいの抵抗は起こってくるだろうが、働いても貧しい現実は変わらないということになる。

効率を追求した経済の行き着く先は、大勢の貧困という皮肉な現実らしい。

個人や企業の資産の所有を認めているのは国だ。国が資産の所有を認めているからこそ、貯金が他人に奪われることなく生活ができる。また、持ち家を持つことができる。なので、所得に応じて税金の負担が増えていく累進課税といった税制は、この所有権の部分的な否定ということになる。

国家といった共同体の本質は共同の体であるということだ。共同の体であるはずであるが、経済的にはそれを否定するような方向に向かっている。所有権は国家が認めたものであり、その国家権力を超えてグローバル企業が跋扈するのは矛盾というほかない。


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植民地と自由貿易

あけましておめでとうございます。

去年は1日に2、3件のアクセスでしたので、今年はより多くの人に見ていただけるよう更新していきたいと思います。

1930年代の世界的不況を原因とした列強による植民地支配と、今の世界的な景気の低迷は似通ったところがある。市場が飽和してもはや外に打って出るしかないという思い込みは昔と変わっていない。植民地の役割は国内の需要不足を補うための売り込み先だ。国内では売れないので、海外に輸出しようといものだ。

酷いものになるとイギリスが中国へアヘンを売ったように、とにかくなんでもいいから強制的に買わせるというのが植民地の本質だろう。アヘンであれば中毒になれば全財産をはたいてでも欲しいで間違いなく売れる。そのため、植民地には必ずといっていいほど外交権や関税自主権がない。

保護国なども植民地の一種なのだが、内政的には自由なわりに外交や貿易に関する主権がない。それもそのはずで、ものを買わせるのが植民地の目的の一つだからだ。戦前の満州建国などもその一例だ。

1929年に起こった世界大恐慌が起こるとアメリカは保護貿易に走って日本からの輸入をやめてしまった。イギリスも植民地を中心としたブロック圏を作ってその中だけで完結する経済体制をとる。

ある程度の国際的な分業体制が作られつつあった世界で、急に自分の所だけで完結する経済体制になってしまうと、工業だけとか農業だけといったような国はやっていけなくなる。紛争が起こると経済制裁というのは初期対応としてよくあることなので、偏った産業しか育成していない国は途端にやっていけなくなるのだ。

当時日本は生糸などを輸出してこまごまとした貿易を行っていたが、それでもこのブロック経済やアメリカの保護貿易によって不景気になる。満州進出の大きな理由の一つは経済的な理由だった。満州には多くの日本人が新天地を求めて入植していった。

今のTPPの議論においても、景気回復には外需を増やして景気回復するという発想が根底にあり、かつての満州建国のころと基本的な発想は変わっていない。国内で売れなければ外国へだ。その行き着く先が植民地や自由貿易(貿易黒字になるかどうかもわからないのに)ということになった。

市場の飽和に対してなにか打つ手はないものだろうか。問題は失業であり貧困だ。20世紀初頭のころと今とで、同じ発想ではなんだか危ういような気がする。

 


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