相模原事件から考える義務と権利意識

2017年2月22日 社会

相模原事件の犯人の植松被告の精神鑑定が行われて、パーソナリティー障害という診断がでたそうです。
植松被告の主張は障害者はお荷物であり生きていてもしかたがないというもので、誠に身勝手な主張なわけですが、ネット上では賛同する意見などもみられ、少しこの事について考えてみました。

植松被告は参議院議長に障害者を邪魔者として排除するような手紙を送っています。働けず税金を納めることもできず、ただ他人の手を煩わすだけの存在ということが、ネット上での賛同を集めた理由のひとつと考えられます。

効率や採算だけを見た非情な意見ですが、今の日本を見ると、どうもこのパーソナリティー障害の植松被告が起こした特殊な事件で済まないのではないか、という気がしています。

すべての人には生きる権利があって、これを真っ向から否定しているわけですから正当性はありません。しかし、人の手を煩わせこの先良くなる見込みもないとなればどうでしょうか。確かに生きる権利はあるのかもしれないが、なんの義務も果たせない人を無駄に生かしておいていいのか?と続くわけです。

これにはひとつ大きな勘違いがあります。権利は義務を果たした者の特権であるという認識です。権利を主張するなら義務を果たせとはよく言いますが、本来、義務と権利は別のものです。税金を人の2倍納めたからといって選挙で2票あるわけでないですし、働いていないからといって生きる権利がないわけでもありません。

しかし、この二つはセットで捉えられるようです。そして、義務は美徳であり権利を主張するものはさもしい、といった価値観が以前に比べて浸透してきている感じがします。本来、別個のものであるにもかかわらずです。義務を果たしたものが控えめに権利を主張する、というのが作法のような空気すらあります。

去年、衆議院本会議で自衛隊、海上保安庁、警察を讃えて拍手を贈るという光景がみられました。国防や治安の維持はまさに国民が果たすべき義務の最たるものです。ここでは義務がこれでもかとでもいわんばかりに賞賛されています。

相模原の事件と衆議院で起こった拍手は義尊権卑とでもいうような、同じ思想の裏表でしかありません。権利への卑下と義務の賞賛です。

人権屋という言葉が示すようにも、もはや権利を主張するのは卑しいことになっているようです。労働組合が下火になり、日本でストが見られなくなっているのもその一つです。ストライキは労働者の権利です。しかし、実行することには社会的な理解が得られなければ難しいでしょう。今の日本では権利を主張することは難しくなっています。

日本人全員が必死に堪えているなかで、そこから抜けて権利を主張するのは卑しい行為なのです。

賃金が上がらなければデフレは脱却できません。こういった痩せ我慢が、組合の弱体化と経済の悪化を招いたと言っても言い過ぎではないでしょう。

日本人は義務はほどほどに、もっと権利を主張すべきだと思います。そうすれば経済も今よりまた違った景色が望めるはずです。

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