お金の本質

2015年11月5日 通貨

政府が何か政策を行おうとすると、決まって財源問題が出てくる。年金問題にはじまり年々増え続ける医療費などとにかく財源がないということが問題だという。だから消費税を上げて安定的な財源を確保しなければならないらしい。そして国民の血税が無駄に使われたと野党議員は口角に泡を飛ばすことを忘れない。

一般人の感覚としてお金というものがいかに大切であるかは、皆様痛いほどわかってらっしゃることだと思う。休みで遊びに行くにせよ財布がなければ始まらないわけで、特に連休とかあろうものならガソリン代やら外食代やらで、いつの間にか福沢が野口になっていたりする。

福沢が一人いたはずなのに、気が付いたら野口が2人になっていたりするわけだ。

しかし、お金のありがたみが身にしみて分かっているが故に、そのことが逆に問題を複雑化させているとしたら悲劇だ。そして事実、お金にまつわる誤解が問題を複雑化させている。

我々庶民にとってお金は価値あるものだが、実は政府にとっては価値あるものでもなんでもない。政府はいくらでもお金を遣うことができる。なので、財源などという言葉はさして意味あるものではないのだ。

どういうことか説明しよう。

我々は日本人として生きている。北海道から沖縄あたりまでが仲間であり、同じ言語を話し、だいたい価値観も共有している。物心ついた時から日本人であり、ある意味有無を言わさず日本人だ。

日本から勝手に出ていくことはできないし、外国人が勝手に入ってくることもできない。適当にアメリカ人になることはできないし、外人が日本人になるのも簡単ではない。帰化するのも、一定期間日本に住んでいるか、きちんと働いているか、税金を納めているか、など素行に問題がないなどの仲間としての素養が問われる。

現代社会において意外に村社会的な色合いが強いのが国家だ。国家は個人を束縛し義務を課す。そしてこの義務から逃れるのはたやすいことではない。

国家というのは非常に強い権力を持った存在であり、それは私たちの知恵によって自ら作り出したものだ。お金のもつパワーの源泉はこの国家権力による。

貧しい老人がいれば、政府は国民に食料をこの老人の元に運ばせる。台風で橋が流されれば国民を動員して橋を掛けさせる。なぜなら同じ仲間だからだ。困った時はお互い様という血の結束こそが国家の本質だ。これらを行った国民に対して、政府は義務を果たしたことを証明する紙切れを渡す。これがお金になる。

なぜ価値があるかというと、次に何らかの義務が課せられるとしても、この紙切れで回避することができるからだ。義務をパスすることができる紙なのだ。

こんな紙なら日本人なら誰でも欲しいのではないだろうか。なぜなら、日本人なら誰一人として国の義務から逃れることはできない。紙切れで済むものなら面倒な労役は遠慮したい。かくしてお金を媒体にした経済は容易に軌道に乗ることになる。

貨幣経済が回りだすと労役はほぼ紙切れによるパスで埋め尽くされる。これが税金だ。強制労働よりよほど文明的といえるだろう。そして今まで強制徴用していた労役は、公共事業といったビジネスとして自発的でより質の高いものになっていく。

お金というのはもともとは権力や強制力といった、捉えようによってはネガティブなパワーに支えられたものだ。実際の歴史はこれとは全く違うが、お金と国家の構造を表したお話としてきいてもらいたい。

政府にとってお金は本当に紙切れであり、それ以上のものではない。厳密に言うと日本銀行が発行しているのだが、政府が管理しているので結局は政府が発行しているのも同じことだといえる。日銀法は国会で承認されて政府によって運営されているわけだから。

徴税することによってお金は価値を生み、価値があるがゆえに徴税されるという捉えにくいシステムになっている。徴税とお金の価値は車の両輪だ。この仕組みを良く理解していない国会議員は財源問題を口にする。そして財源がないという勘違いがあらゆる悲劇を生み出している。

消費税増税にはじまり年金の削減、医療費の自己負担の増大、公共事業削減によるインフラの脆弱化と国民の貧困化だ。政府(日銀)がお金を発行してサラッと遣えばいい。

もともと政府支出は国民の労役によって支えられていた。お金を支出して民間企業に仕事をさせるのではなく、国民を徴用して仕事をさせていた。つまり、政府支出の限界というのは、国民が徴用によって自分の生活に支障がでるところがそのポイントと言える。日本国民の生産性の限界が政府支出(政府による徴用)の限界なのだ。

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