2020年の東京オリンピックに向けて政府のタクシーの自動運転化の目標を始め、様々な産業のロボット化が進んでいる。介護の現場での入浴を補助するロボットや、着込むタイプのパワードスーツといったものまで開発されているらしい。
しかし、一方でそうした自動化による失業といった心配の声もあるのも事実だ。スーパーのレジなどでもセルフ化が進んでおり、その心配は現実のものとなりつつある。安倍政権が掲げる1億総活躍社会とは逆の方向に進んでいる感もある。
経営者としては人件費といったコストを削減して利益を求めるのは真っ当なことだが、国全体としてみたときに何がおこるのだろうか。
日本の人口は1億2千万人で約その半分が労働人口だ。つまり6千万人が働いていることになる。もし、ロボットやITによって今と同じ生産物が1千万人程度で可能になるとしたら5千万人は職を失うことになる。少し極端な例だが現実にならないとは限らない。スーパーコンピューターの進歩でシンギュラリティがくるのが2045年というから、そう遠い話でもない。シンギュラリティというのは特異点といわれるもので、コンピューターの強力な計算力によって、様々な科学技術的な問題が一挙に解決するというものだ。その頃には衣食住といった基本的な生活物資は、労働なしで手に入れられるという。
本当にそんなことになるかはわからないが、今以上に生産活動に人の手がかからなくなるのは間違いないだろう。ロボットを所有する金持ち(企業)と、何ももたない失業者が大量に発生するのは想像に難くない。ポイントは1千万人しか働いていないのに、今と同じだけの生産が可能になっているという所だ。
過剰に生産された財やサービスが余り、一方では所得がない人が貧困に陥いる。9割の人は生産に携わることもなければ消費することもなく、経済活動からはじき出される格好になる。
しかし、冷静に考えると全員分の財やサービスは生産可能であるのに、9割が貧困に陥っているというのもおかしな状況だ。働いていない人が貧しいというのはもっともらしいがそもそも雇用がないのだ。こうなると自給自足でもするほかはない。家庭菜園で延命をはかるくらいの抵抗は起こってくるだろうが、働いても貧しい現実は変わらないということになる。
効率を追求した経済の行き着く先は、大勢の貧困という皮肉な現実らしい。
個人や企業の資産の所有を認めているのは国だ。国が資産の所有を認めているからこそ、貯金が他人に奪われることなく生活ができる。また、持ち家を持つことができる。なので、所得に応じて税金の負担が増えていく累進課税といった税制は、この所有権の部分的な否定ということになる。
国家といった共同体の本質は共同の体であるということだ。共同の体であるはずであるが、経済的にはそれを否定するような方向に向かっている。所有権は国家が認めたものであり、その国家権力を超えてグローバル企業が跋扈するのは矛盾というほかない。